カテゴリ

カテゴリ:25歴史 平安への誘い

平安京の実像 8

カテゴリ:
Pky32b8p
 大河ドラマ「義経」もだんだんクライマックスが近づいてきたようだ。先週の放送では八島の合戦の段。そして有名な那須与一の登場だ。この話、日本人で知らない者はいないだろう。

 それにしても源氏・平氏の違いはなんだろう? 源氏の姓というといまの我々はすぐ頼朝や義経に代表されるような武門の棟梁をイメージするが実は天皇の子孫で官僚貴族である。平氏も同じだ。源氏は清和天皇、平氏は桓武天皇の皇子達が天皇の座につけず天皇の臣下に下り新しい姓を賜った、と言うのがルーツなのだ。

 武家としての源氏・平氏は時代が下るにつれその一族が分化していったものである。平安前期・中期の頃はまだ武家・貴族の分化は不十分で源氏も平氏も政治に携わる官僚貴族の一族なのだ。源氏物語の光源氏もその一人だ。

平安京の実像 7

カテゴリ:
 最近京都観光は絶好調だそうだ。書店に行っても京都特集の雑誌や本やらが溢れかえっている。雅な京都は日本人の憧れなのである。京都に住む人間の一人としてはやはり誇らしい。しかしながら「雅な」と書いたが普通の京都人にとっては京都は雅でもなんでもないただの生活の場でしかない。

 今だからこそ明かされる衝撃の事実! 実は「雅」とは京都が生き残るためにしかけた世界最大の詐欺なのである。明治維新で天皇が東京へ行ってしまった。お公家さんも明治維新に活躍した政治家たちもそれについて東京へ転勤してしまった。その時京都はかつて平城京だった奈良のように一気に地方都市のひとつに落ちてしまったのだ。そこに危機感を抱いた京都の知識人たちは近代化と同時に文化・歴史を強調したのだ。近代化は琵琶湖から疎水を引き、日本初の水力発電をし、これまた日本初の市電を走らせた。そして文化・学問では1100年の歴史を強調した。明治政府も日本が近代国家として西欧列強に伍していくために西欧に劣らない歴史と文化を持っていることを強調するため京都を副都としてさまざまな投資をしたり大掛かりな装置を作った。平安遷都の頃の大内裏を模して造営された平安神宮はその装置として最たるものだ。

 確かによーく考えたら今の京都の有名な神社仏閣などは創建こそ平安時代でも室町時代以降に建てかえられたものが多い。それさえ幾多に渡る戦火で焼け落ち江戸時代以降に再建されたものもある。更に京都の伝統工芸だってほとんどが江戸時代に確立され、産業として成り立つようになったのは明治時代以降である。1200年の歴史と言ってもそれは始まりであって近年のものが多いのが実態だ。千年の歴史は幻想なのだ。
 すなわち京都の生き残り策としてのキーワードが「雅」なのである。皆これにだまされ京都は「千年の歴史を持つ雅な文化都市」だと思い込んでいるのである。 どうだ? まさしく世界最大の詐欺ではないか? [E:smile] でもま、それにだまされてるのもけっして悪くはないと思うぞ。文化というものは何世代にも渡って紡がれていく。目の前に建っている神社仏閣がたとえ江戸時代に再建されたものでもそこにある精神は紛れも無く平安時代からのものなのだから。
 
 たかだか建国220年程度の歴史しか持たないアメリカ人なんかそんな歴史を持つ日本人が羨ましくてしょうがないのだ。

Kdwacbbo

平安京の実像 6

カテゴリ:
Hj71ud0e
 ある日の光 源氏のディナーメニュー

 お客様、本日のディナーメニューをご紹介いたします。まず本日の食前酒は�清酒(すみさけ)と言う高級酒でございます。(普段は濁り酒が多い) メインディッシュは�白米を炊いた「強飯(こわいい)」でございます。そして本日の�汁物は「カブの羹」でございます。めぐり(調味料)は�酢、�醤(しょう 現在のもろみ)、�塩でございます。おかずは�煮ハマチと�煮あわび、�山イモをご用意しました。�香の物は茄子の塩漬けと大根の味噌漬けでございます。本日のデザートはフルーツではなく�牛乳を煮詰めて作った蘇と言う甘いチーズケーキでございます。 ではごゆっくりお召し上がりください。

 以上が源氏物語の中で光源氏が食しているある日の食事のメニューである。当時貴族の食事は朝・夕の一日二回であった。朝食は巳の刻(午前10時ごろ)、夕食は申の刻(午後4時ごろ)が一般的。もっとも下層の役人、農民、職人などは2食では持たないので間食を取っていたようだが。
 朝はお粥で済ます場合もあるが一般的に現在と同じ白米を炊いたご飯。汁物は魚・肉・野菜などを煮込んで塩か豆醤(まめびしお=味噌の先祖)で味をつけたもの。副食物は魚・野菜が中心でめぐりと呼んだ調味料(酢・醤・塩)で自分好みの味付けをして食べていた。

 飽食の現在から見れば貴族のこのメニューでもそれほど凄いという感じはしないがもちろん当時は庶民に手の出ない高級な食材ばかりを使った豪華な食事なのだ。ちなみに紫式部はイワシが大好きでいつもこっそり焼いて食べていた。ある日夫の藤原宣孝に見つかりそんな下品なことをするなと怒られた。「イワシ」は「いやし(卑しい・賎しい)」に通ずると言うのだ。しかし紫式部は少しも慌てず言い返した。「日ノ本に はやらせ給ふいわしみず 参らぬ人はあらじとぞ思ふ。」(日本一の石清水八幡宮にお参りしない人がいないように、こんな美味しい魚を食べない人はいませんよ)とイワシといわし水をかけている。これには夫の宣孝もギャフン!であった。どうも1000年前から女性の方が健康に気を使っていたようですね。

引用文献:歴史群像シリーズ65 学研

平安京の実像 5

カテゴリ:
 
 平安時代の女性ファッション

 平安時代の貴族の日記や文学には圧倒的にフアッションに関する記述が多い。実はそれは単に貴族達の美意識によるものだけではなく、服装は何よりその人の身分を直接的に示す標識であったからである。また身分は同じでも状況によって細かな決まりがあったので、服装への関心は美意識と言うよりそのシチュエーションによってどの官職の人がどのような服装をすべきかにあったのだ。
 では貴族女性の公式行事の場や宮中の勤務先での正装はどんなものだったか? それが下のイラストの「唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)」であった。日常の衣服は紅の「袴」と薄地の「単」をベースにその上に「袿」を重ねたもので「袿姿」と言った。そして正装は「唐衣」と「裳」を付ける。この服装の主は「袿」でこれを数枚重ね、一番下に「単」を着た。十二単の名称はここから来たのである。十二とは単に十二枚ということではなく「多い」と言う意味なのだ。ちなみに一番下の単は肌が透けて見えるほどの薄着であった。
 「唐衣」は豪華な衣服で上半身のみのもので袖も短い。また「裳」はもともと腰に巻いたスカートのようなものでそれが後ろだけになって丈が伸びたものとされる。それに装飾用の「引腰」の他に小腰と言う紐が付き前に回して「袿」の上から結んだ。
 院政期の藤原頼長の日記『台記』にも「およそ主上渡りたまう時、女房必ず唐衣を着す。裳にいたりては主おはしまさざる時といへども、之を脱ぐを得ず。」とあり「唐衣」と「裳」をつけることが正式の服装であったことがわかる。
 
  
引用文献 「平安京 くらしと風景」 東京堂出版

Gwsjbnlu

カテゴリ:
 まもなくバレンタインデーなので本日は平安時代の男女関係についてちょっと面白いお話をばいたします。

 今昔物語の二十八巻のトップにこんな面白い話が載っている。伏見稲荷でのお話。

 今は昔、稲荷の初午は京都に住む上中下の人々で賑わっていた。ある年の初午の日、近衛の舎人、茨田重方は同僚四、五人と連れ立って稲荷詣でにやってきた。
 ちょうど中の社にさしかかった時、市女笠を被った身分の高そうな着飾った女が歩いてくるのに出くわした。日ごろから女好きの重方が目ざとく見つけ彼女を口説き始める。
 「れっきとした奥様をお持ちの殿方のお言葉を真に受けてはバカを見ますわ。」女は思わせぶりな態度で色っぽく答える。
 「確かに妻はいますが顔は猿のようで心はがめつい女。別れようと思っていますが、綻びを繕ってくれる女がいなくなるので、仕方なく一緒にいるだけです。いい女がいたら取り替えようといつも思っているのです。」
 「まあ、本当ですか。私も三年前に夫に死に別れ、いい男を捜しに毎年初午にやってきております。本気なら住所を教えてもよろしくってよ。でも、やっぱりよそうかしら。」
 「本気ですよ。稲荷の神様に誓って嘘は申しません・・」
と、突然女は重方の頭をつかみ、バシ!っと平手打ちを思い切り食らわした。なんとそれは重方の妻だったのである。

 と、まるで上方漫才のようなお話なのだ。ここで面白いのは身分のありそうな優雅な女に扮した妻が「相頼む人もがなと思ひて、この御社にも参りたるなり」、と答えてる場面である。よーするに伏見の稲荷神社は男にとっても女にとっても好ましい異性を見つける場所だったのだ。今で言えば大阪ミナミのナンパ橋のような出会いの場所なんだな。
 これは伏見稲荷の歴史ともかかわりがある。9世紀に朝廷から東寺管掌を任された空海が、塔を建立するため、近くの稲荷山から木を切り出したため、それ以来稲荷神社は東寺の鎮守となり、関係を深めていった。稲荷神社そのものも位が急激に上がり、10世紀には正一位になる。今で言う「正一位稲荷大明神」となるのである。これは密教のダキニ天(要するに性愛の神様)との関連が言われている。身分の高い女性も庶民の女性も自分のパートナーを求めて、稲荷詣でをし、それを堂々と口にすることがちっとも恥でもなんでもない大らかな時代だったのである。今もある意味女性の方が強い時代だけどさ。(笑)
今日のお題!! 「伏見稲荷は現代で言えば大阪心斎橋のナンパ橋であった。」
 安倍晴明も自分の奥さんを伏見稲荷でナンパしたんだろうか・・

追伸:940年2月14日は「平将門」が死んだ日です。。安倍晴明19歳のときである。

引用文献 「平安京 くらしと風景」 東京堂出版

このページのトップヘ

見出し画像
×