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カテゴリ:21お出かけ・旅 京都魔界案内

ロケハン

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ちょっと仕事の関係で京都市内にロケハンで出かけた上御霊神社。地下鉄鞍馬口駅から東へ少し行ったところにある。863年に神泉苑で催された御霊会が元となり上御霊神社と下御霊神社(寺町通り丸太町下がる)が創祀された。共に怨霊を奉って鎮めている。近所には相国寺と同志社大今川キャンパスがある。
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室町時代の応仁元年(1467年)にこの神社の境内でその後11年にわたる応仁の乱が勃発した。後の下克上、戦国時代へと繋がる事となる。そういうところから信長も台頭してきたんだな~。ひょっとして鎮めるために怨霊を集めすぎたせいなのかも知れない。(苦笑)

今の世も毒を吐き続ける怨霊がちまたに溢れているのでここに奉って鎮めたら良いのかも知れない。

魔界ほど美しい?

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宇治橋から塔の島を望むNjsphadw_s
宇治橋Uddkl8iy_s
極楽浄土Ov1bopyt_s
雪に舞う鳳凰
* 写真は拡大して見れます。

 今日は近畿地方は全域大雪だったな。めったに雪が積もらない京都南部も朝方からの雪がかなり積もった。定番なら京都市内の金閣寺あたりの雪景色が最高だが敢えて宇治平等院を撮影に行った。京都市内と違ってなかなか平等院の雪景色って見られないからね。1052年関白藤原頼道が極楽浄土をこの世に出現させるために創建した平等院の美しさに怨霊の「橋姫」もきっと感動していることだろう。

京都魔界案内 16

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Ykaejlsh 菊水鉾


Yq5dp99b 蟷螂山


 本日は久々に祇園祭りに昼出かけた。今年は宵々山、宵山、山鉾巡行が3連休と重なるためすっげー人出だ。でもまだ昼間のうちならそんなにひどくはない。駒形提灯に灯が入り、祇園囃子が流れ、山や鉾が幻想的な姿を見せる宵山になると正直行きたくなくなるほどの超混雑である。
 元々が貞観11年(869年)に疫病の災厄除去を願って始まったものだが今のように町衆が自分たちの力で自治組織を作って始めたのは応仁の乱以後の明応9年(1500年)である。今我々が見る祇園祭の真の歴史はここから始まったと言っても過言ではない。
 現在の「鉾」は真ん中に4〜5階建てのビルに相当する一本の柱を持ち、豪華な造りの台車がそれを支えている。平安時代には単なる鉾が66本立てられていただけだ。鉾は災厄を祓うための諸刃の剣を持つ武器である。それがこの高い柱に変形し、南北朝時代に芸能を演じる車付き舞台と合体して今の形になった。一方、「山」は祭りで神霊を招くために設置される「作り山」が変形したものだと言う。

 各「鉾」や「山」では保存会が様々な宝物を展示しており、それをゆっくり見て回ろうと思えば夜よりも昼間に行ったほうが良い。蒸し暑い中をじっくり歩いて見たがわしが好きな山は「蟷螂山」である。中国の故事から取った蟷螂がご神体で首や鎌が動く唯一のからくり仕掛けである。
 


京都魔界案内 15

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 幽霊飴伝説

 六道珍皇寺の近くに「幽霊子育飴」という看板がかかった小さな飴屋がある。「みなとや幽霊子育飴本舗」といい、売ってる飴はこの飴一品のみという究極のオンリーワンな店だ。

 この子育て幽霊の話は確か江戸時代ごろの結構有名な話で聞いたことのある人も多いと思う。以下簡単にその話を書く。

**** 昔、毎晩夜更けになると、飴屋に飴を買いに来る女があった。不審に思った主人が恐る恐る女の後をつけてみると鳥辺山の墓地辺りで姿を消してしまった。翌日、女が消えたあたりを探してみると赤子の泣き声が墓の中から聞こえてくる。その泣き声のする墓を掘ってみると女の亡骸の脇で赤子が飴をしゃぶっている。この女の幽霊が赤子を育てるために夜な夜な飴を買いに来ていたのだ。それ以来この飴屋の飴は「幽霊子育飴」と呼ばれるようになった。 ***

 医療の発達していない昔は出産時に命を落とす女性も多かった。そうして不運にも赤子と引き換えに命を落とした女性が幽霊になってでもわが子を育てるという、子供に対する母親の一途な愛を語る物語である。いっそのことこの話を今度の改正教育基本法に書き込んでみてはどうだろう。くだらない「愛国心」を強調するよりよっぽど「少子化対策」にもなるぞ。


京都魔界案内 14

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Gdfehcuq 六道珍皇寺:地獄への入り口

0x55qqjt 六道珍皇寺に祭られている閻魔大王像


六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)

 六道珍皇寺は東山区の松原通りにある。松原通はかつての五条大路であり、葬送の地、鳥辺野(五条坂から今熊野への阿弥陀が峰の麓一帯)へ亡骸を運ぶ通り道であった。平安時代の都人は五条大路を亡骸をかついで鴨川を渡り、この六道珍皇寺で野辺送りの法要を行い、その後鳥辺野へと運んだ。
 六道とは仏教用語で言う地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つの冥界のことで人間は死んだらこの六道のいずれかに輪廻転生すると信じられていた。そこでこの世とあの世の境であるこの六道珍皇寺のあたりを「六道の辻」と呼ぶようになった。人間が一番恐れたのは地獄に落ちることだったので六道の辻はすなわち地獄への入り口と同じだったのである。
 そしてここにはもう一つ面白い話がある。今昔物語に書かれている話で平安初期の宮廷歌人、小野篁(おののたかむら)はこの寺の庭の井戸から夜毎冥界に通い、閻魔大王に仕えて閻魔庁でアルバイトをしていたという話だ。この井戸は現在は壁に囲まれていて近づけないが今も古の面影を留めている。

 この寺ではお盆に「お精霊(しょらい)さん」を呼び寄せる「迎え鐘」が撞かれ、千年以上に渡って先祖の霊を迎え続けている。そして盆が終わると8月16日の五山送り火と矢田寺の送り鐘でお精霊さんは冥土へと帰っていく。

 参照記事 地獄地蔵

 市バス:清水道下車 徒歩5分

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