カテゴリ

カテゴリ:21お出かけ・旅 京都魔界案内

魔界ほど美しい?

カテゴリ:
Mfkld38__s
宇治橋から塔の島を望むNjsphadw_s
宇治橋Uddkl8iy_s
極楽浄土Ov1bopyt_s
雪に舞う鳳凰
* 写真は拡大して見れます。

 今日は近畿地方は全域大雪だったな。めったに雪が積もらない京都南部も朝方からの雪がかなり積もった。定番なら京都市内の金閣寺あたりの雪景色が最高だが敢えて宇治平等院を撮影に行った。京都市内と違ってなかなか平等院の雪景色って見られないからね。1052年関白藤原頼道が極楽浄土をこの世に出現させるために創建した平等院の美しさに怨霊の「橋姫」もきっと感動していることだろう。

京都魔界案内 16

カテゴリ:
Ykaejlsh 菊水鉾


Yq5dp99b 蟷螂山


 本日は久々に祇園祭りに昼出かけた。今年は宵々山、宵山、山鉾巡行が3連休と重なるためすっげー人出だ。でもまだ昼間のうちならそんなにひどくはない。駒形提灯に灯が入り、祇園囃子が流れ、山や鉾が幻想的な姿を見せる宵山になると正直行きたくなくなるほどの超混雑である。
 元々が貞観11年(869年)に疫病の災厄除去を願って始まったものだが今のように町衆が自分たちの力で自治組織を作って始めたのは応仁の乱以後の明応9年(1500年)である。今我々が見る祇園祭の真の歴史はここから始まったと言っても過言ではない。
 現在の「鉾」は真ん中に4〜5階建てのビルに相当する一本の柱を持ち、豪華な造りの台車がそれを支えている。平安時代には単なる鉾が66本立てられていただけだ。鉾は災厄を祓うための諸刃の剣を持つ武器である。それがこの高い柱に変形し、南北朝時代に芸能を演じる車付き舞台と合体して今の形になった。一方、「山」は祭りで神霊を招くために設置される「作り山」が変形したものだと言う。

 各「鉾」や「山」では保存会が様々な宝物を展示しており、それをゆっくり見て回ろうと思えば夜よりも昼間に行ったほうが良い。蒸し暑い中をじっくり歩いて見たがわしが好きな山は「蟷螂山」である。中国の故事から取った蟷螂がご神体で首や鎌が動く唯一のからくり仕掛けである。
 


京都魔界案内 15

カテゴリ:
Dpnh0spf
 幽霊飴伝説

 六道珍皇寺の近くに「幽霊子育飴」という看板がかかった小さな飴屋がある。「みなとや幽霊子育飴本舗」といい、売ってる飴はこの飴一品のみという究極のオンリーワンな店だ。

 この子育て幽霊の話は確か江戸時代ごろの結構有名な話で聞いたことのある人も多いと思う。以下簡単にその話を書く。

**** 昔、毎晩夜更けになると、飴屋に飴を買いに来る女があった。不審に思った主人が恐る恐る女の後をつけてみると鳥辺山の墓地辺りで姿を消してしまった。翌日、女が消えたあたりを探してみると赤子の泣き声が墓の中から聞こえてくる。その泣き声のする墓を掘ってみると女の亡骸の脇で赤子が飴をしゃぶっている。この女の幽霊が赤子を育てるために夜な夜な飴を買いに来ていたのだ。それ以来この飴屋の飴は「幽霊子育飴」と呼ばれるようになった。 ***

 医療の発達していない昔は出産時に命を落とす女性も多かった。そうして不運にも赤子と引き換えに命を落とした女性が幽霊になってでもわが子を育てるという、子供に対する母親の一途な愛を語る物語である。いっそのことこの話を今度の改正教育基本法に書き込んでみてはどうだろう。くだらない「愛国心」を強調するよりよっぽど「少子化対策」にもなるぞ。


京都魔界案内 14

カテゴリ:
Gdfehcuq 六道珍皇寺:地獄への入り口

0x55qqjt 六道珍皇寺に祭られている閻魔大王像


六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)

 六道珍皇寺は東山区の松原通りにある。松原通はかつての五条大路であり、葬送の地、鳥辺野(五条坂から今熊野への阿弥陀が峰の麓一帯)へ亡骸を運ぶ通り道であった。平安時代の都人は五条大路を亡骸をかついで鴨川を渡り、この六道珍皇寺で野辺送りの法要を行い、その後鳥辺野へと運んだ。
 六道とは仏教用語で言う地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つの冥界のことで人間は死んだらこの六道のいずれかに輪廻転生すると信じられていた。そこでこの世とあの世の境であるこの六道珍皇寺のあたりを「六道の辻」と呼ぶようになった。人間が一番恐れたのは地獄に落ちることだったので六道の辻はすなわち地獄への入り口と同じだったのである。
 そしてここにはもう一つ面白い話がある。今昔物語に書かれている話で平安初期の宮廷歌人、小野篁(おののたかむら)はこの寺の庭の井戸から夜毎冥界に通い、閻魔大王に仕えて閻魔庁でアルバイトをしていたという話だ。この井戸は現在は壁に囲まれていて近づけないが今も古の面影を留めている。

 この寺ではお盆に「お精霊(しょらい)さん」を呼び寄せる「迎え鐘」が撞かれ、千年以上に渡って先祖の霊を迎え続けている。そして盆が終わると8月16日の五山送り火と矢田寺の送り鐘でお精霊さんは冥土へと帰っていく。

 参照記事 地獄地蔵

 市バス:清水道下車 徒歩5分

京都魔界案内 13

カテゴリ:
B73vnq4l 北野天満宮

Ccuimuz7 菅公 安倍童子 キャララフ画


北野天満宮

 北野天満宮は「天神様」とも言い、菅公(菅原道真)の祟りを鎮める為に959年に造営された。都の人々にとっては菅公の祟りはそれは恐ろしいものであった。道真は藤原時平の陰謀で大宰府に流され、903年にその地で没した。その後怨霊となった道真は平安京に襲いかかる。清涼殿には二回も落雷があり、時平本人や二人の皇子、更には道真左遷にかかわった者たちが死んだり大怪我をした。そして醍醐天皇までが病に臥し亡くなるという異常事態が発生した。
 特に930年は異変が多く疫病・洪水が多発した。都の人々は道真の祟りを噂したが942年、それが「託宣」(神のお告げ)として公になった。京のはずれに住む多治比文子(たじひのあやこ)という巫女に道真の霊が宿って自分を北野の地に祀れ、という宣託を下したのだ。この宣託に導かれ貴族達が天満宮を造営したのである。だから北野天満宮の境内には文子天満宮というのがある。

 もともと天神様とは農耕の神である。農民にとっては作物の豊凶を左右する水を支配する雷神・龍神であった。当時この北野の地には北山や西山、特に愛宕山で発生した雷雲がたびたび雷を落としていたのである。そこでこの地にはもともとそれを祀った「地主神社」「火之御子社」が鎮座していた。特に「火之御子社」はホノイカズチ、そのもののずばりの「雷様」を祀っていた。今もこの二社は北野天満宮の境内の中にあるが道真公の怨霊にM&Aで乗っ取られてしまったのである。[E:smile]

*************************************

 8日付の日経新聞に「平安京誕生の陰に温暖化」という記事が載っていた。これによると平安遷都は温暖化による多発した洪水の被害を避けるため行われたもので、道真が亡くなった903年前後から40〜50年間に逆に約3度気温が下がる寒冷化があった。そのため乾燥化が進み干ばつによる凶作が続いたそうだ。このことも道真の祟りと結び付けられたそうな。なるほどな、何事も科学的に理屈が付けられるものである。

 さてさて一方「晴明! なにやってんの」の我が晴明公と怨霊道真の対決は本編ではいかようになるであろうか・・[E:smile]

このページのトップヘ

見出し画像
×