平安京の実像2
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- 25歴史 平安への誘い
公卿とは摂政、関白、太政大臣、左・右大臣、内大臣、大納言、権大納言、中納言、権中納言、参議までの三位以上の者のことで国政を司るメンバー、今風に言えば閣僚クラスの者を言う。摂政と関白はよく混同されるが摂政は天皇が幼少の際におかれる代行者のことでその権限は天皇と同等で一方関白は成人した天皇の補佐役に過ぎないのである。太政大臣以下参議までは当時の国会である「太政官」の構成員で左大臣を実質的TOPとして国政を運営していた。
すなわち公卿とは平安貴族の中でもTOPクラスの者たちでその数は平均すれば20数名程度である。五位以上の貴族が百数十名、中、下級官人が約1万人と言うからいかに少数のエリートであったかがわかると言うものだ。
ちなみに我らが源博雅君は天延2年(974年)56歳にして従三位皇太后宮権太夫に昇った。かたや天徳4年(960年)の土御門家に仕える若杉家の古文書の末尾に「天文得業生」安倍晴明の名が歴史上初めて出てくる。晴明40歳の時である。「天文得業生」とは現代風に言えば陰陽寮に所属して天文学を学ぶ学生である。要するに貴族どころか下っ端の官僚ですらなかったわけでとても源博雅君とタメグチきける立場ではなかったわけだ。(笑)
しかし晴明は天才であった。そのありあまる才能を陰陽道と言う特殊技能に振り向け、47歳で陰陽師、52歳で天文博士(従七位)の官位まで昇った。実はこの官位でも雅な貴族どころか貧乏長屋暮らしの食い詰め役人程度なのだ。だがこの官職には位階でははかれない重みがある。天文を観察して異変があれば密奏すると言う職務は時の最高権力者(天皇・摂政)と直接結びつくからだ。そしてその時の最高権力者は「藤原道長」であった。道長は晴明の才能に着目し、天皇・皇族、摂関家のために種々の占い・邪鬼払い・延命祈願などの祭祀・呪術を行わせ、晴明を重用した。晴明は目に見えぬ世界の秘密に通暁した達人として貴族世界に重きをなし、最終的には博雅君とタメグチをきける従四位下まで駆け上ったのである。(笑)
もっとも晴明自身はこの出世をどこまで喜んでいたかは知らないけど・・
次回は晴明のパトロン「藤原道長」君のお仕事振りを紹介する。
引用文献 「平安京 くらしと風景」 東京堂出版
「歴史群像シリーズ 安倍晴明」 学研