昭和の残照 環境編 1
さて勢いに任せて連載を始めた昭和の残照シリーズだがもうン十年前ものことなので記憶が・・(笑)
鮮明に覚えていることもあればかなりあいまいになっている部分もある。そこはご了承願いたい。なるべく当時の記憶をたどっていくけど。
住んでいたのは堺市浅香山。当時の家の周りの様子はだいたいこんな感じ。中学生くらいになると自転車なんかでもっと行動範囲は広がるが小学生が遊び歩くのはこれぐらいの範囲だった。片道歩いて10分くらいだろうか。ほとんど家の近所の原っぱや空き地、田んぼで遊んでいたように思う。
それにしてもすぐ近所に刑務所があったり、火葬場、無縁仏の墓(ピラミッドのように墓石が積み重なっていた)、精神病院があったりとなかなか刺激的な環境である。(笑) 駅の近くの雑木林では首吊りもあったし・・(--)
ベランダからは刑務所越しに堺臨界コンビナートの大きな煙突が乱立するのが見え、昼間は煤煙がモウモウ。夜は煙突の先端から夜空を煌々と照らすように炎が燃え上がり幻想的?でもあった。
鉄筋コンクリート4階建ての 社宅の間取りは6畳ニ間にダイニングキッチン。ここに両親と弟と家族4人で暮らした。とても広いとは言いがたいが子どもが小さいうちはこれでも余裕のある広さだったのかもしれない。
内風呂は小学4、5年くらいになるまで無く近所の銭湯に通った。会社が洗濯場を改装して内風呂が出来たときはすごく嬉しかったな~。でもトイレだけは当時一般の家は汲み取り式が主流だったのに対して水洗であったのが自慢だった。(笑) あと近代的な?設備としては台所の流し台の横に備え付けられたダストシュート。ゴミは袋に入れここからポンと捨ててそのまま一階のゴミ箱に落とす。わざわざゴミを下まで持って降りなくてすむので非常に便利だった。洗濯物を干すのは5階の屋上。ここもかっこうの遊び場だった。
コメント
コメント一覧 (6)
>私は小学1~2年のあいだ尼崎に住んでおりました。
これは奇遇!!
実は私も1歳から3歳までは尼崎に住んでました。
もちろん全然記憶はありませんが。(笑)
でも母親の話では尼崎に住んでたときは
私は喘息に悩まされてたそうですが
堺に引っ越して喘息は治ったそうです。
堺も決して空気綺麗ではないと思いますが
尼崎よりはましだったんでしょうね。
刑務所の畑に忍び込んでキャベツ盗んだりしてました。
犯罪だ。(笑)
高野線側なんですが、大和川では、色々ありますよね。
一番のポイントは浅香山浄水場・ツツジの通り抜けでしょうか。
ええ!! 藍麦さんも浅香山に住んでたの!?
ほ、本当に世間は狭いなぁ~。
>浅香山浄水場・ツツジの通り抜けでしょうか。
毎年親に連れられて行ってました。(笑)
お住まいは南海高野線側ですか。
うちは百貨店に買い物に行く時は大概
阪和線の浅香山駅から天王寺に出てましたが
たまに高野線の浅香駅から難波へ出てました。
そうですか~、この地図懐かしいですか?(笑)
覚えてる限り正確に描いたつもりですが
基本的にはそんなに変ってないんでしょうか。
刑務所も当然まだあるんでしょうね~。(遠い目)
>藍麦さんも浅香山に住んでたの!?
結婚当初ですね。
10年も住んでいなかった気が。
>基本的にはそんなに変ってないんでしょうか
いえ、自分が出てから結構変わったそうです。
大和川寄りですが。
>基本的にはそんなに変ってないんでしょうか。
ん~、高野線がないので、分かりませんが。
書かれているものはありましたよ。
ちょっと、位置関係が違う気もしますが。(苦笑)
さきほどグーグルで航空写真を見てきました。
うわー、やっぱりだいぶ変ってる。
でも刑務所と学校と病院と火葬場はある。
小学校のそばの変電所も公園もそのままですね。
でも堺リベラル中学校ってのは・・
確かここは「愛泉女子学園」だったはず・・(笑)
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