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 お待たせしました。本日は平安貴族の中でも最高権力者に登りつめた「藤原道長」君のお仕事振りのお話です。平安貴族と言えば広沢の池に船を浮かべ詩歌管弦の遊びにふけり、宮中の女房達と華麗なロマンスに興じていたと思われがちだがどうして結構今の政治家どもより真面目に仕事をしていたのである。

 少し長くなるが藤原道長の日記『御堂関白記』の長和6年(1017年)2月のところを読んでみよう。当時道長は前年即位した後一条天皇の摂政だった。
 
  一日 三条上皇のもとを訪れ、次いで参内(内裏にあがること)。この日は内裏に宿直す。
  二日 明日行われる春日社の祭りの準備に追われる。朝廷から使者として派遣する藤原師経に下襲(したがさね)を送り、道長個人も使者を派遣する。
  三日 豊作を祈って京都周辺の神社に派遣する祈念穀奉幣使(きねんこくほうへいし)をいつ出立させるべきか、実施責任者の藤原斉信と相談、日時を決定する。現在新築中の土御門邸の工事状況を視察する。
  四日 祈年祭が行われる。その報賞のことなどを祭主と相談する。先日春日祭に派遣した使者が戻り、報告を受ける。
  五日 三月に予定されている後一条天皇の石清水八幡宮行幸について実施責任者の藤原実資と打ち合わせ。土御門邸の工事を視察。
  六日 参内。宿所で沐浴中、一条橋での殺人事件発生の報告を受ける。さっそく検非違使に調査を命じる。被害者は滝口の武士の大蔵忠親で、女をめぐって三角関係にあった検非違使放免(検非違使の下っ端)の為重丸を事情聴取のため召喚したが、応じないと言う。
  七日 内裏に詰めている。
  八日 内裏に詰めている。息子の頼通よりこの日行われた園韓神祭と孔子を祭る釈奠と両者とも無事行われたとの報告を受ける。
  九日 橘為義宅に泊まる。
  十日 参内。大原野神社の祭りに私的に神馬使を派遣する。夜になって内裏を退出。
 十一日 藤原実資と三月の石清水行幸について相談。右大臣藤原顕光が新年号の案を持ってきたが、不快のため後日考えることにする。下級官人の昇進の儀式が執行されたとの報告を受ける。参内し、退出。ニ七日に予定の木幡(祖父らの墓所:場所をどこにするか安倍晴明に占わせた)詣りについて雑事を命ずる。
 十ニ日 殺人事件の真犯人が播磨国にいる藤原明賢、明孝兄弟であることが判明したとの報告を受ける。検非違使を逮捕に向かわせるべきだが行幸が近いことなどから見合わせ、宣旨を下して召喚することとする。
 十三日 明日の祈年穀奉幣使が奉る宣命の文案について責任者の藤原斉信に指示をする。
 十四日 早朝参内。新年穀奉幣の責任者斉信が来て賀茂社に奉幣に行くはずの藤原兼隆が都合が悪いと言う。代理について指示をし、その後奉幣使出立の儀式に参加。
 十五日 内裏に宿直す。

 ざっと2週間ほどのお仕事振りいかがであろう? 意外に忙しいんだな!!しかも細やかな行き届いた指示。いや〜、見直しました。(笑) 祭りのことが多いのは儀式や祭りは当時は威信をかけた国家行事なのだから当然として、まさか殺人事件の捜査の指揮までとるとは・・(^^;) 名探偵コナン君も真っ青だ。これを題材に2時間ドラマ作ったらヒットするかも。「平安京殺人案内! 公卿藤原道長の事件簿1 一条戻り橋での連続殺人事件 式神は見ていた 摂政道長の名推理」なんちゃって。(爆)
 そんな道長も53歳で糖尿病からいろんな病気を併発して8年間苦しみぬき万寿4年(1027年)に塗炭の苦しみの中で死んでいったのだ。晴明の死後22年目のこと。

引用文献 「平安京 くらしと風景」 東京堂出版